Believe it or not, ancient Japan had little to no use of its own written language. Myths and legends were transmitted exclusively through speech, and even after the introduction of Chinese characters, their meanings were purely symbolic, until Buddhism was established by Prince Shotoku during the Asuka period and sutra copying was introduced as a discipline.
Arano Sensei was born in Kitami city during World War II. At the age of 6, her father who was a soldier passed away and so her family made the move to Sapporo for a period of time before eventually settling in Kimobetsu. She remembers being very happy about her calligraphy work when it was chosen by her school teacher and awarded.
In 1948 she was juggling a day-time asparagus assembly line job and evening high school classes, but she never stopped practising calligraphy, and at age 23, she moved to Kutchan where her professional calligraphy career began.
Her passion has never faded; she opened a calligraphy classroom in town, visited museums overseas to acquire knowledge and increase appreciation of the art of writing. Traveling made her realise that she would like to promote gender equality and societal well-being, so she spent 24 years as a town councilor.
83-year-old Arano Sensei remains self-motivated to teaching young children and creating her own art work for exhibitions and cultural events.
What’s the best thing about Japanese calligraphy?
There’s always something good in other people’s work, adults can learn from kids.Is the concept of four seasons important in Japanese calligraphy?
Not especially, but the change of seasons does affect my work as long as I am alive.Anything important to keep in mind when writing?
Calm yourself and relax your mind, it’s great if you could connect your heart and the brush.What is the most important thing in teaching calligraphy?
A good posture, which leads a calm state of mind. Never give up, keep trying till the end.Any advice to those who are interested in Japanese calligraphy?
Go see as many calligraphy works as you can. Take your time to observe and explore each of the art pieces created by people from different backgrounds and with different styles, we can always learn something new.Do you have a goal?
Japanese calligraphy is a way of expressing oneself. I’ve been writing for 76 years now, and I haven’t yet felt completely happy about my work. I would like to express myself and create my own piece. I would rather continue to focus on creating my very own work instead of copying the style of someone inspiring and admirable.
Writing proves that you exist, it is culture that we need to value and appreciate. Techniques are not my main focus, a great thing is that you can express one’s identity, very unique to the person in Japanese calligraphy. I still love the moment when my calligraphy turns out the way I wished for, it’s very rewarding.
日本における、書道の始まりは、文字の歴史であり、仏教の歴史でもあると言ってもよいだろう。
今の中国から漢字が伝来するが、もともと日本には文字を使う文化が無く、神話や伝説などはすべて口伝えで残したため、当初日本に伝わった漢字は、文字として使う事は無く中国から
伝わった古銭や、印に使われシンボル的に使われるにとどまった。
仏教の伝来により、文字の文化は飛躍的に発展した。
聖徳太子など当時の天皇による仏教の推進により、仏教の経典を移す写経が国家事業となり、文字を使う、文字を書く行為が文字を美しく書く、伝え、表現することが、書道の基本となったのである。
今回、書道について話してくれた荒野さんは、北海道の北見市で生まれ、6歳まで過ごすが、父親の戦死をきっかけに、家族と札幌へ移り小学校に入る。第2次世界大戦の頃の話である。
札幌へ移った当初友達もいなく、孤独な日々を送っていた彼女であったが、小学校の授業で
初めて書道と出会うことになる。書道の授業で書いた作品が、先生の目に留まり。選ばれた結果、賞品をもらうことができた。物のない時代に大変うれしかったと言う。
母の勧めもあり、書道を学び始めるが、戦争で物もだんだんなくなり、習字塾も閉鎖になる。札幌でも食料が確保できなくなり、比較的食糧事情の良い、喜茂別に移り住み、間もなく終戦を迎える。
1948年に起きた喜茂別町の大火により、町の半分が燃えてしまった。彼女の家族も怪我人こそ出なかったが、思い出の品や、家財はすべて失った。
高等女学校に通っていた彼女だが大火を期に、経済的状態はさらに悪くなり、女学校をあきらめ、義務教育の中学校に通い卒業する。
母からはは高校への進学は無理だと告げられたが、向学心の強い彼女は進学を望み、運が良いことに、当時の喜茂別の町長が学ぶチャンスをを絶やしてはいけないという強い希望から
喜茂別に高校が設立され、定時制、夜間部に入学、昼間はアスパラ工場に働きながら、勉強を続けていた。
そんな生活すら大変な中でも彼女は書道の練習を欠かすことなく細々と続けていた。
高校卒業後は小樽の検察庁に採用され、4年間働き、23歳で倶知安で現在のご主人の所に嫁ぐ。
結婚して4年目に仲間と書道グループを作り毎週の稽古日に書き始め、北海道書道展に出品し、以降、同書道展に出品することが目標となる。
その後ニセコに移るが、周りから頼まれたのと競書誌
(書道の技術を磨くための雑誌)の先生からの勧めもあり、書道教室を始める。彼女の人柄と、熱心な指導からか、
小中学生が集まってくる人気の教室となる。
教員をしていたご主人の仕事の都合で後志管内を転勤し暮らすことになるが、倶知安の教室はやめることなく続けていた。
書を書き続けるために、他のアート作品に触れることが大切だと思い、中国をはじめ、諸外国の美術館や、博物館へ出来る限り足を運んだ。
アメリカやカナダなど旅行し、海外で女性が活躍する社会を見てきたことを伝えなければいけないという責任感、世の中を良くしていきたいという強い気持ち、周りからの勧めや、親せきに議員が多くいた事もあり倶知安町の町議会議員に立候補し当選する。
後志管内で300人ほどの議員がいたが、女性議員で彼女一人であった。その後6期24年間
議員を務め、77 歳で議員の席を退く、その後も消費者協会の会長を務めるなど、今でも現役で
活躍している彼女である。
時代に翻弄され、生きていくのも大変な時代を過ごし、世の中のためにと議員の道を選ぶなど、大変忙しい中でも、筆を休める事は無かった。
83歳になった今でも書道への情熱はさめる事は無く、創作活動や生徒への指導を熱心に続けている。
書道を知ってもらうためのイベント、展覧会なども積極的に参加している。
そんな彼女に書道について聞いてみた。
書道の良さは
どんな人の作品でも必ず、良い所がある。子供が書いた書でも学ぶことが出来るのも素晴らしいことの一つです。書道に季節感はあるのか?
特にはないが、自分が生きている限りは、好きな季節、天気などで書に影響はあると思う。書を書くときに大切なことは?
心を静かにして、豊かな気持ちを持つようにして書くこと、
自然と心と筆が一つになるように書けると良いと思う。教えるときに心がけていることはありますか?
紙に向かう時の姿勢、体の姿勢だけではなく、心の姿勢、
気持ちが大切だし、それを教えていきたい。たとえ少し失敗したと思っても、あきらめずに最後まで書きとおす、作品として、書き進めて、最後までやめずに完成させることが大切。書道に興味のある人へのアドバイスをお願いします。
数多く書を見ること、色々な人、色々な形の書を、心を落ち着けて、時間をかけてゆっくり見ていくこと。私自身、絵画のことはよく判らないが、旅行先などで、美術館に寄り、同じように一つの作品をゆっくり見るようにしている、必ず何か学ぶことがあるので。ゴールはありますか?
書道は表現の方法で、自分で納得できる文字を書きたい。
76年間書き続けているが、いまだに納得のできる作品は書けていない。技術は必要だが、技術のみでなく、自分の表現、自分の書を書くことを目指しています。
好きな先生や作品に心をひびかせてまねるのではなく、自分の作品作りを続けたいという。
現在、書道教室で8歳の子供から、大人まで、20人ぐらいの生徒に教えているそうだ。
文字を書くことは人間としての証、文字という文化をいただいているので大切にしなければいけない。
書は自分の中にある。子供でも、ただ教わるだけでなく書くときは自分で字を書く。技術も大切だが、
それだけではなく、そこで本人の個性が出せるのが書道のすばらしさであるという。
「今でも、自分の好きな字が書けたときはうれしい」と話してくれた。
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